ボクの前には誰も走らせない




バイクレース界の最高峰で輝いていた、とある日本人のプロレーサーを紹介したい。



本名を知らなくても、「ノリック」という愛称や、
トレードマークだった茶髪のロングヘアーと言われればご存知かもしれない。




本名、阿部典史。バイク漬けの人生だった。

5歳の誕生日に父親からポケバイをプレゼントされた彼はバイクに夢中になり、
成長するにしたがってモトクロスやミニバイクレースで頭角を現し、
中学2年のときにプロのレーサーになると父親に告げる。


そして中学卒業と同時に単身アメリカへ修行に出、
18歳で全日本ロードレース選手権の最高峰・500ccクラスにおいて史上最年少で優勝。

そして21歳でロードレース世界選手権第3戦目・日本グランプリ500ccクラスで、
当時3連覇を狙っていたミック・ドゥーハンを得意の左コーナーで抜き去り、日本人として14年ぶりに優勝。

その後も世界のトップレーサー達と競り合い、一時期スーパーバイク選手権に鞍替えもしたが、後に全日本ロードレースに復帰。
世界の頂点で渡り合える数少ない日本人レーサーとして更なる活躍を期待されていた一人だった。



その走りはアメリカのダートトラック仕込みから生まれた、
転倒するのではというほどの深いバンク角と世界一速いとも言われた左コーナー。
そしてヘルメットの下からたなびく長髪


バイク一筋の人生は、現在(2011年現在)も現役のオートレーサーである彼の父親、阿部光雄氏の影響も大きかったのだろう。




おれがノリックという人物を知ったのは20歳くらいの頃だったか。


レースの世界ではその名が知れ渡っていたのはもちろん、
バイク雑誌にコラムを載せ、TV番組では「東京にプールつきのすごい豪邸を建てるのが夢」などと言ってのける
順風満帆といった感じのヤツがおれは大嫌いだった


当時のおれはと言うと、何の取り得もなく、どこにでもいそうなしがない大学生。
対してヤツはすでに雲の上の存在



ヤツは細身の長身でイケメン。爽やかさを通り越してイヤミっぽい感じの仕草
そして、事あるごとにたなびくロン毛。
生まれた日がたった8日しか違わないのに、測れないほどに開いてしまった差…。


ヤツの何もかもが大嫌いだった。八つ当たりでしかないのは分かっていたが、やはり大嫌いだった。
活躍している様など見たくもなかった。
そのくせ、おれは星と翼がデザインされたメットを初代ノリックレプリカとも知らずに10年間も被り続けていた。




久方ぶりにノリックの名前を目にしたのは、バイクの雑誌でもレース情報でもなく、朝のNHKのニュースだった。

ノリックが亡くなったと言うのだ。

それも、レース中の不慮の事故死ではなく、川崎市内の一般道でバイクで走行中の交通事故だったと伝えていた。
朝食中だったおれはすぐに手元にあった新聞に目をやると、そこにも大きくノリックの交通事故死の記事が。



300km/hの超高速世界で戦っていた世界のノリックが公道で、それもバイクの事故で……。
そんなことがあっていいのか。いや、いいはずがない!



その日は一日落ち込んでいた。大嫌いだったはずなのに。
ヤツはおれと同じ32歳で、人生の最大の友だったバイクに乗ったまま旅立ってしまいやがった。

そしておれは今も生き永らえ、歳の差はどんどん開いていく。
しかし、おれの前にある天と地の差が縮むことは、ない。



交通事故の概要はこうだ。
大型スクーターで走行していたノリックの前方で、停車をしていたトラックが急にUターンを始めヤツの進路をふさいだ。
ヤツは避けようとしたらしいが、避け切れずその側面に衝突したというのだ。



レースの世界において安心して超高速走行が出来るのは何故だ?



それは、全員に一定水準以上の技量があること、
外部と遮断され安全が保たれた道(サーキット)を全員同じ方向に走っていること。


そしてレーサー達全員がお互いを信頼しているからだ。




しかし、おれたちに与えられた道はサーキットではない。

世界をまたに翔けるプロレーサーですら命を落とすほど、ありえないことが起こりうる、
「公道」と言う名の戦場だ。




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このコラムはノリックの早すぎる死を弔うために、一刻も早く書きたかった。
だが、なにをどう書けばいいのか分からず、3年半の時が流れてしまった。


永い旅路の途中に青い星の交通社会を見おろすノリックは、いったい何を想っているだろう。




参考資料:「トップランナー Vol.5」(KTC中央出版)