不自由な体を味わって
足の裏に小豆大の物体が出来てしまった。
その物体が出来始めた頃は、「たこ」や「魚の目」だろう、大したことはないと放っておいた。
歩いてその物体が圧迫されても痛くもないからだ。
前者の2つの異物には、血管は通ってない。肌の角質が硬くなったようなものだからだ。
ところが、この物体は爪切りで切ると、必ず出血する。
それでも気にしていなかったが、ある日、皮膚科にアトピーの診察に行ったついでに、医師に足裏の物体について尋ねてみた。
すると医師曰く、「ご愁傷様。これは『いぼ』です。放っておくと他の場所にも伝染します。すぐに処置しましょう。
痛いけどガマンですよ」
「イボコロリ」の「いぼ」だと言うのである。
のちに いぼは、たこや魚の目と違い自分自身のほかの部分に飛び火したり、
他人に伝染したりするウイルス性の病気と知るのだが、その時はただのデキモノと思っていた私はビックリ仰天である。
液体窒素でいぼを焼き、自然に剥がれ落ちるのを待つという気長な治療を施された。
マイナス196℃の液体窒素を綿棒につけ、患部に押し当てて焼く(凍結させる)のだが、これが異常に痛い。
わざと凍傷にさせるのだから、たまったものではない。
当然、治療後のいぼは腫れ上がり、水ぶくれになった。
その足で普通に歩くと、一歩歩くたびに水ぶくれ化したいぼが擦れて激痛が走り悲鳴を上げたくなる。
右足の腹に出来た小豆いぼに触れないように歩こうとして、
右足を引きずるような形でしか歩けなくなってしまったのである。
それでも痛い。
その日仕事を休んで朝から皮膚科でいぼを焼かれた私だが、昼からが限りなく暇になってしまった。
だからといって家でごろごろするのは性分ではない。
出かけよう。
バイクで出ようと思ったのだが、あいにく雨模様。
仕方なく傘を持ち地下鉄とバスで行くことにした。
ここから私の苦難の道が始まる。
普段なら家から500mほどの地下鉄の駅まで歩いて行っている。
しかし今は痛みで右足を引きずっているのでゆっくりしか歩けず、
堪えながらたっぷりいつもの倍ぐらいの時間もかかって地下鉄の入口までたどり着いた。
涼しいのに十分汗をかいた私はいつもは階段を下るが、今は痛みが強いのでエレベータに乗ろうと思った。
だが、なかなか来ない。
待ちきれず、結局階段を手すりにつかまり半泣きになりながら下った。
いつもは1段飛ばしで走って下る階段が、いつまで経っても終わらない気がした。
幸運にも電車では難なく座れ、目的の駅に着いた。
しかし、地上に上がろうとすると、不運にも上りのエスカレーターが工事で動いてない。
また手すりに寄りかかり、四分の三くらい泣きながらカニ歩きで階段を上った。
なかなか地上に着かず、何でこんなに深い所に地下鉄を作るのだと怨んだほどだ。
地上に出た私は50mほど先のバス停に向かった。
その前に長さ20mの横断歩道を渡らねばならない。
いつもならサッサと渡れる横断歩道を痛みに耐えながら、傘を杖代わりにして右足を引きずり、のそのそ歩く。
早く左折をしたい車たちのイライラの集中砲火を浴びながら、涼しいのにまた汗をかきかき渡りきった。
横断歩道が限りなく長く見えた。
横断歩道の青信号も短いんじゃないかと思った。
目前のバス停には目的地行きのバスが停車していた。
しかし、傘杖右足引きずり状態の私では間に合うはずがなく、バスは行ってしまった。
次のバスまで少し時間がある。しかしバス停のベンチは客で埋まっていて座れない。
座っている客よりも明らかに若い私がベンチに座りたがっているなどとは誰も思ってはくれず、
誰も席を譲ってはくれなかった。
ずっと立たされていた。
傘で体を支えられなかったら、後ろのフェンスに立ったまま寄りかかっていたかもしれない。
ようやく来たバスに乗り、目的地に向かった。最寄のバス停で降り、また痛みに耐えながら目的地に歩いて行った。
しかし非情にも目的の店は営業時間が終了していて、入ることは出来なかった。
仕方なくバスで来た道を歩いて戻り、途中にある郵便局に向かうことにした。
距離にして700m。
普段の私なら全く問題ない距離だ。
しかし今の私は傘杖右足引きずり状態だ。そんな私にとっての徒歩700mは拷問に近かった。
私の普段の歩行速度は非常に速く、前方の歩行者を次々に追い抜いていくほどだ。
だがこの時ばかりは汗を流し必死で歩いているにもかかわらず、老人や子供にまで置いてけぼりにされた。
歩道と車道のちょっとした段差が邪魔だった。
交差点から数m離れた所にある横断歩道まで回り道させられるのですら、わずらわしかった。
お年寄りが先にある横断歩道を渡らず、道路を渡りたがるわけが分かった気がした。
右足をかばうので、右のふくらはぎが つりそうだった。
郵便局にたどり着いた時は、疲労困憊で、ベンチに座らずにはいられなかった。
いぼの出来た右足裏を憎んだ。
その次に再びバスに乗ったが、バスの昇降口のステップの段差が大きく、乗りづらかった。
まだ座っていないのにバスが動き出し、踏ん張りが利かずバランスを崩した。
バスを降り、とあるラーメン屋に入った。
そこは水がセルフサービスで、歩き疲れてのどがカラカラの私はすぐに汲みに行った。
店内で傘を杖代わりにするわけにもいかず、他の座席の縁につかまりながら冷水機まで行った。
店を出て再び地下鉄へ。
横断歩道を2回渡ってやっとついた地下鉄の入口には、エスカレーターはあったが上り専用で乗れず、
エレベーターもなかった。
下りは歩くしかない。
更に入口には、1段の段差があり、足の痛い私は拒まれた気がした。
仕方なく、先ほどと同じように横断歩道を左折待ちの車の人たちに待ってもらい時間をかけて渡り、
エレベーターのあるもうひとつの入口に向かった。100mほど離れたもうひとつの入口までは遠かった。
エレベーターを降りると、そこはコンコースの端っこ。改札口までが異様に遠い。
ホームへ降りられるエレベーターは、今乗ってきた地上行きのエレベーターと柵をはさんで目の前にあるのに、
改札口が離れているためにわざわざコンコースを一往復しなくてはいけない。
改札を抜けると電車発車のアナウンスが聞こえたが、走れるはずもなく見送った。
自宅の最寄の駅で降り、いつもは乗らないエレベーターを探す。やはりホームの一番端にあった。
またそこまで歩かなくてはいけないのか…。最初から端っこの車両に乗っておくべきだったと後悔した。
駅を出て家へ向かうが、もうくたびれて歩く気力もなくなっていた。
すると隣に住む方が車で通りかかり、私の有様を見て自宅までの200mを乗せてくださった。
この時ばかりは車のありがたさと隣人の親切に感謝した。
今回実際に不自由な体になって、街中を歩いて分かったことだが、
健常者にとっては普通であっても、体の不自由な人たちにとって不親切な箇所が
たくさんあることを痛烈に感じ、自分自身いい勉強になった。
今後そういった方がモタモタされてるように見えても、それで一生懸命なんだと温かく見守り、時には手助けしようと感じた貴重な一日だった。
(2004.10.3)
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